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『精神障害者小規模作業所における作業の意味分析』

三野 宏治 200603


2005年度 立命館大学大学院応用人間科学研究科・対人援助領域 修士論文

精神障害者小規模作業所における作業の意味分析

【目次】
研究の主題
第1章 作業所の成り立ちと現在の活動
1 作業所の成り立ち
2 現在の作業所での活動
3 作業代行と合理的配慮
4 何故、作業所に来るのか?
第2章 「作業」とは作業所においてどんな意味を持つか?
1 可能性としての定義
2 作業が持つ意味とは(仮説として)
2-1 社会とのつながりを持つ方法
2-2 コミュニケーションツール
2-3 小遣いかせぎ
2-4 副次的効果
2-5 一般就労への準備
2-6 トラップ(罠)
  3  戦略としての選択
  4 場としての作業所
第3章 作業所とクラブハウスモデル
1 クラブハウスの成り立ち
2 クラブハウスの機能
3 作業所とクラブハウスの違い
第4章 福祉と仕事の中での「役割」
1 仕事のあり方と「役割」
2 福祉と家族と役割の関係をどうとらえるか 
~ストリートピープル。この出来事からみた日本~
3 結語として 様々に選ぶこと

引用・参考文献
謝辞

研究の主題
作業所における「作業」とはいったいどのような意味を持つのだろう。一つの見方として障害者と就業の問題が上げられる。作業所存在理由の一つに「就労」という切り口で捉えられることが多い。作業所の活動(作業)自体が福祉的就労である。また、作業所を一般就労のための準備段階・訓練の場と位置づけることも多い。
 では、就労を目的としない利用者にとっての「作業」の捉え方があり得るのか。それはいったいどういった時で、どのような意味を持つのかを、支援する側の視点で検証した。
そして、今まで「作業」について何が議論されたのか、また何がされていないのか、「作業」の持つ意味を再度分解し、「作業」についていくつかの仮説を立ててその意味をこの
論文では検証し、「作業」とはいかなるものであるかを捉え直していきたい。
 またアメリカのクラブハウスの活動(仕事)を紹介し、作業所の「作業」との捉え方の違いを見いだし、「作業」の捉え直しの一助にしたい。




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第1章 作業所の成り立ちと現在の活動

1 作業所の成り立ち
全国的な歴史としては、1969年3月、共同作業所第一号の「ゆたか共同作業所」が誕生し、72年に「みのり共同作業所」ができている。これらの取り組みは全国に普及し、東京、京都、大阪、滋賀、栃木、高知、広島に作業所設立の動きが続いている。精神障害者の作業所としては、1976年「あさやけ第2作業所」(東京)が、翌年に「まいづる共同作業所」(京都)が設立されている。ここで注目したいのは、作業所黎明期、なぜ作業所を作ろうとしたのかという動機である。それが解れば作業所における「作業」の、当初に持たされた意味を知ることができる。
 『ひろがれ共同作業所』によると作業所は、「養護学校を卒業はしたものの働くところがない」、「学校に通えるようになったがその後の保障がない」といった当事者、家族の思いをもとに作り出された。つまり「何故、作業という手法を取り入れたのか?」とか「作業所における作業の意味とは?」といった類の問いは、黎明期においてはナンセンスであり、「作業所=働くところだから作業をする」または、「作業所しか働くところがない」と、とても解りやすい答えが返ってくる。
ただ、精神障害者にとっての作業所の意味を考えると、作業所は今まで述べた作業所=働くところだから「仕事をしたい」、「何らかの理由で仕事をしなければならない」といった明快なものと若干色合いを異にする。まず多くの精神障害者作業所の立ち上げは、医療以外のサービスがなかった時代に始まっている。精神障害は中途障害であるから、学校(養護学校)等の福祉が無かった。第2に精神病という疾病と障害が並列して存在しているが故、長年において障害者としてみられることはなく、病者としての扱いがなされていた。作業所を設立する場合も、医師や医療機関のソーシャルワーカー、保健所の保健師や相談員などが家族と共に活動したことが特徴といえる。このように精神障害者支援の黎明期には家族や地域の医療関係者が中心であり、牽引役であった。福祉関係者やソーシャルワーカーなどは、あとになって関わったという経緯がある。
大阪府N市の作業所の黎明期を知る人によると、80年代前半に精神科のクリニックの談話室にて、家族が中心になって患者を対象に手内職を始めた。ここでは福祉的就労や就労訓練といったような目的意識は無く、医師の指導のもと作業が行われていた。その後クリニックの業務が忙しくなり、作業をする場所を近所のアパートに移し、作業が続けられることとなったが、その際の費用や専任職員の給与や家賃もクリニックの医師と家族が出し合った。全ての精神障害者作業所の黎明期がこのような経過を辿っているとはいえないが、精神障害以外の作業所の黎明期に養護学校の先生が深く関わっているように、精神障害の場合、医療機関が深く関わっていた。このことは特に珍しいこととは思えない。その人がどのような障害や疾病、あるいは特徴を持ち、その人にどのような支援者が関わっているか、ということである。現に家族という存在が、どの障害者作業所の黎明期にもみられる。家族は障害をもつ当事者にとって、一番身近な存在だからである。
 このように「作業」について何かを特に意味づけられないまま作業所というものが誕生する事となった。その際「作業」という手法を取り入れたのはそれを行う当事者ではない。作業所を立ち上げたのは家族であり、医療機関関係者であり、福祉専門職者である。この時点での作業所は誰のためのものであったのだろう。そして「作業」の意味づけも、当事者が選んで意味づけたものではなく、周囲にとっての意味づけが先行してしまう。そして現在も作業所の中心的な活動は、周囲が先行して意味づけた「作業」である。この当事者不在の意味づけが、後に「作業」を様々な意味合いで当事者が使い分ける要因となっている。 

2 現在の作業所での活動
 私が現在勤めている法人では3カ所の小規模通所授産施設をもつ。小規模通所授産施設とは、共同作業所が無認可であることに対して国の認可を受けたもので、その殆どが国の認可を受け活動内容を変えずに名称と許認可を変化させたものである。故にこの論文では、作業所として名称を統一したい。
まず、黎明期から続いている作業所の活動内容を紹介する。この作業所は80年代の前半から活動している。その中心的な活動である「作業」は、ショッピングバッグ作成という内職である。「作業」の他にレクリエーションやミーティングなど「一定、誰もが取り組める、また限られた人のみの出入りによる安心した空間の確保と生活相談」といった活動も行われている。その中で利用者同士あるいは、利用者とスタッフが何らかの活動を共に行うことによって、狭い範囲ではあるが、「模擬的な社会」が醸成された様相を呈している。これは以下に述べる他二カ所の作業所にも当てはまることで、一定の成果であり「作業」を捉える際のキイワードでもある。90年中盤から活動している2カ所目の作業所は、お菓子作りを行っている。「特定の人の出入りとそれによる安心した空間」から「地域の人が誰でも入ってくることができる空間」への転換を行う事をねらいとした。ただ、この手法は地域社会と商品を通じて接点を持つということが、商品の高品質化、つまり売れる物を作らなければならないという事態を生むこととなる。そして接客などといった活動も加わり、若干ではあるが作業が利用者を選んでしまう恐れが出てきた。「作業をすることが可能な人」、あるいは「やりたいと思う人」が第1番目の作業所より少なくなるという事実がある。この選ぶという判断を誰がしているのかという視点は重要といえる。利用者が「したくない」あるいは「好ましくない」といってその「作業」を選ばない場合、それはその人が「選んでいる」といえる。しかし、「できない」という場合、その「『できない』という『作業』」がその人を選んでいるといえよう。即ち、現在その人が取り組んでいる「作業」は「できる」ということだけであって、「したい」や「好ましい」という条件がそろっているとは限らない。3つ目の作業所は「働くことを意識したい。地域側へ積極的な働きかけをしたい」といった利用者の要望から、作業種目を「昼食弁当の製造と宅配」とした。昼食作りと宅配といった要素から、午前中の作業が忙しく、利用者、スタッフのみではとても注文に応えることが出来ないのでボランティアを募集し手伝ってもらっている。しかし、働くことを意識したことで、「給金の一定額の保証」ということが前提となってしまった感があり、ボランティアもマンパワー不足の補い手としてのみの存在と捉えがちになってしまっている。第2、第3の作業所は商品を通して、また、お客である地域住民に販売するという働く姿を見てもらって、啓発の一部分も担っている側面があるが、効率の良い啓発かというとそうではない。なぜなら、商品も宅配も作業の一端であって、啓発の手法ではないからである。結果としてそのような要素も含まれていたので意識したにすぎない。
 では、作業所では何を目的に、何を行っているのか。一般的には、障害をもっていても地域で豊かに暮らしていける為の支援ということになる。その始まりも前述したとおり、家庭と医療機関だけではなく、他に行き場をという思いに端を発している。そのため、利用するに当たって時限はない。ただ、この時限の無さということと「『作業』をさも当然として行う」といった思いこみが、精神障害者の社会参加の一助にもなり、障壁にもなっているように思える。
 家庭と医療機関のみの生活に施設が加わったことで、格段に人との関わりは増えただろうし、活動の選択の幅が広がったことだろう。しかし、そこ(施設内)での関係、人間関係や施設から発信されるプログラムのみに終始してしまって、新たな参加の可能性を少なくしてしまう場合はないか、という疑問が起こってくる。これら、作業所内だけで物事が完結してしまう事の功罪については、後の第2章2―5で述べる「作業をどう意味づけるか『副次的効果』」で考察する。今までに述べた工賃の発生する作業は、利用者は収入源としてとらえる。製品を一から作るお菓子づくりや弁当づくり、内職など他の事業所から請け負ってきたものを製品化するものについても何らかの収入がある。その収入は作業所ごとに集計され分配される。分配のされ方は、利用者各人がタイムカードを打ち一ヶ月の総時間数を出す。総純益を総時間数で割ると、1時間ごとの時給が出る。その時給に各人の「作業」をした時間をかければその人のその月の収入となる。この収入を訓練手当と呼んでいる。もちろん、内職のように、ある事業所からの委託を請け工賃を得るより、弁当を作ったりお菓子を作ったりして販売する方が収入はよい。また内職は同じ様な行程があるにせよ、工賃は変わらず、職親から少し高度な仕事を依頼されることもある。つまり内職に比べてお菓子づくり、お菓子づくりより弁当づくりの方が純益は高く、訓練手当も良いということになる。しかし、多くの人が弁当づくりやお菓子づくりをする作業所を選ぶとは限らない。お菓子づくりや弁当づくりは「自分のペースでの仕事はできづらく、忙しい」というのが内職を行う作業所に通う理由からだ。
そして、作業所にあって一般企業にないものに「中抜け」というシステムがある。気分の落ち込みや調子の悪いとき、自己申告で一定時間休憩をする仕組みである。この場合、タイムカードにその旨を記載し「中抜け」中は時給がつかない。この「中抜け」について利用者と話し合ったことがある。それを事例として以下に記載する。

〔エピソード1〕
昼食の休憩後「中抜け」をすると申告した利用者がいた。理由を尋ねると「眠いので少し寝る」
といった答えが返ってきた。「眠いことのは中抜けの理由になるのか」と尋ね返すと「休んでい
る間は訓練手当がつかないので良い」との事であった。「眠い」といった理由での「中抜け」が
多い時期だった事もあったので、了解を得て「眠いは中抜けの理由になるのか」について話し合
った。結果「理由になる」が圧倒的に多く、「時と場合によってはなる」がその次で、「ならな
い」という意見はなかった。これらの話し合いをした利用者は皆「中抜け」の経験があり、「も
し自分が中抜けをする立場で、『眠い』ことを理由に中抜け出来ないこと、または制限を受ける
のはしんどい」という意見がその心中を象徴しているかに思える。この質問を菓子づくりの作業
所と弁当づくりの作業所で行ったところ「理由にならない」が大半を占め、弁当づくりの作業所
に於いては、全員が「理由にならない」と答えている。その意見の多くの理由としては「人が減
ると忙しくなる」や「自分が抜けると迷惑がかかる」といったもので、作業の忙しさに比例して
「中抜け」肯定派は少なくなっている。
 しかし、単に作業が忙しければそれでよいのかといえば、これは別の問題が生じてくる。菓子づくりの作業所にも作業場面に必ず2名以上の職員がいる。弁当づくりの作業所に至っては3名以上の職員と、利用者でも職員でもない人、つまりボランティアが数名いる。内職作業の作業場面でも職員はいるが、作業の段取りの説明や利用者への対応が主な仕事である。このように「作業はいったい誰が行っているのか」といった問いは、「作業代行と合理的配慮」の問題として、後の章で検証する。内職作業を中心に行っている作業所ではベースの訓練手当の他、手当が付く場合がある。それは公園清掃であり市から委託を受け、週2回、1回90分行っている。これに参加した利用者は一回につき400円の外勤手当が付く。訓練手当時給100円を考えると破格だが、人気集中といったことはない。希望者が参加するという形態であり、それへの不満はない。一度「皆が順番で掃除に出てはどうか」といった意見が利用者から出たことがあった。しかしこれには、掃除に行っている人、行っていない人双方から了解が得られなかった。「好きな人が行けばよいし、外に出るのが苦手な人もいる」「暑いのや寒いのはかなわない」「皆がいったら行く機会が少なくなる」といった意見が多くを占め、作業の棲み分け、選び分けが無意識に行われていることが解った。
この作業の棲み分けは作業所の選択と同じような所があり、訓練手当が高い作業所が一番人気かというと、そうではない事と同一であると考えられる。そして、この棲み分け、あるいは選択を可能にしている作業所の仕組みが「入りやすく出にくい」という作業所の特徴を産む要因である。これについては後述の章で考えたい。これらの何らかの金銭を生む「作業」に対して、どこからも収入を生まない「作業」もある。どこからどこまでが金銭を生んで、どこまでが生まないかといったことは線引きが難しい。例えば、製品のチラシを作って宣伝をするだとか、内職であれば便利なツールを自分たちで作るだとか、最たるものは職親への礼状や年賀状作りといった類のものである。たぐり寄せていけば、ひいては金銭を生むきっかけぐらいにはなりそうなものがいくつもある。これは何も作業所内だけには限らない。ただ、明確に収入とは結びつかないものも作業として存在する。所内掃除や機関誌づくりや運営委員会への参加がそれである。これらの活動は作業所内では作業の一つとして扱われ、訓練手当の対象となる。それは何故か。この問題については、後の第2章の1「可能性としての定義」で考察する。そして、「作業」として認められないものも作業所の活動にはある。レクリエーションやクラブ活動や食事作りなどがそれであり、参加は自由で実費負担である。ただ、ここでこれら「作業」と見なされてなかったものが、「作業」と見なされ、訓練手当の対象となったエピソードがある。以下はそれに至る経緯と結果である。

〔エピソード 2 〕
レクリエーションを決めるミーティングでのこと。その日は「昼食をみんなで作ってみんなで
食べよう」ということになった。しかし参加者を募ると三名ほどであった。あとの多数は「食事
は食べたいが作るのは嫌」という人たち。かといって、「レクリエーションが無くなるのは嫌」
あるいは「作業した方が訓練手当が出るから作業がしたい」という意見であった。そのやりとり
を聞いていたある利用者が「食事を作る人と、作業(内職)をする人に分けて両方に訓練手当を
出せばどうか」という案を出した。その旨を踏まえて出席者を募ると20名ほどになった。料理づ
くりは三名に任せ、後は作業という不思議な形のレクリエーションがはじまったが、この形態は
今も続いていて不満の声は聞かれない。

 これからも解るように、作業所における「作業」は金銭を生む、生まないに関わらず存在している。そして、この金銭(訓練手当)が「作業」を分かりづらくしている要因の一つだと考える。

3 作業代行と合理的配慮
『精神病者にとっての「合理的配慮」として』(2)によると、雇用上のニーズと合理的配慮には、
・勤務時間の融通、短時間にする、休憩時間を頻繁にあるいは長くする
・通院時間、通院日あるいは病気休暇の権利
・残業を強要されないこと
・外部の本人支援のための相談機関が、医療機関以外に必要。法的支援のみならず、様々な形の相談機関とりわけ当事者団体が必要
・在宅勤務制度
・雇用率に就労中のものを入れるとするならば、大幅な雇用率増加が必要
・作業所における最低賃金の適応及び最低賃金法適応除外制度の撤廃
・恒久的なパーソナルアシスタント性
が上げられている。
 一方で共同作業所の「共同」をどうとらえるかについては、『ひろがれ共同作業所』にある共同作業所の特徴と性格では、共同作業所の実践における大きな特徴として、「共同作業所で働き生活する障害者同士、あるいは障害者と職員との関係やあり方に問題があります。障害者同士でいえば、その種別や程度の違いを越えて対等平等の関係を築く事を目指し、集団的な実践を追求しています。」(1)また、職員と障害者の関係に於いては、「『決して管理者のように振る舞わない』『共同作業所を支あう集団として』等に示されるように、求められる立場や役割は異なっても、大前提として、大人同士の対等な関係を築いてきています。全国の共同作業所の多くが、作業所に通う障害者を『仲間たち』と愛情をこめて語る内容には、以上のような意味が込められているのです。」(1)とある。
 合理的配慮に関していうと、多くは作業所などで働くいわゆる「福祉的就労」者に向けてではなく、一般就労を想定して述べられている。ただ、一般就労は「福祉的就労」よりハードルが高いせいか、一般事業所で仕事をする障害者は多くない。多くないからこそ、このような文章ができあがったのだろう。しかし、そのハードルが高い所でさえ、「作業代行」つまり、「健常者が働いて稼いだ賃金を障害者にそのまま渡してしまえ」とはいっていない。あくまでも働く主は障害者、その人たちなのである。「共同」についても同じで、「求められる立場や役割は違っても、大前提として大人同士の対等な関係を築いてきています。」(1)とあるように、「作業代行」は対等ではないかのように書かれている。
しかし、実際はどうであろうか。利用者だけでは納期に間に合わない仕事を、職員が残業して行う場合がある。注文が多い時期など菓子づくりや弁当づくりといった作業場面では職員やボランティアが、マンパワー不足を解消する手段として活動する。自主製品を売るバザーでは家族が出席して訓練手当の足しにする。果たして何処までの「作業代行」が認められるのか。ある作業所ではその人の能力によって訓練手当に差を付けている所がある。しかし、それにはかなりやっかいな手順が必要だと思える。その上、その作業所で誰かの手による「作業代行」が全く行われていないといった事実はない。
 作業所は「就労の場ではない。だから最低賃金の適応外である」という。実際そのとおりであり、作業所の賃金だけで食べていける人はごく少数だろう。ただ、目に見える形での「作業代行」が無いにせよ、厳密に言うとその人たちの訓練手当は利用者の「作業」のみで稼がれているわけではない。福祉施設は、国や市区町村からの助成金や支援費で運営されている。それらの助成金は施設運営、つまり建物を借りたり職員の給与や光熱費など施設運営に掛かる費用を助成するもので、その助成金や支援費を施設利用する障害者に直接渡してはいけない。ただ、間接的に渡っていることはあまり語られていない。間接的であるというのは、利用者と直接何ら利害関係のないはずの助成金や支援費で専門家を雇っているという事実がある。これは「助成金という金」で雇われた職員が何らかの支援を行い、また通所してくる利用者のための建物を借りて、光熱水費を賄っている。そして、その中で利用者達は作業や活動を行っている。支援というものの背後に「金銭」が存在し、それによって活動を行っている。しかし同時に、支援は合理的配慮であるとも捉えられる。合理的配慮の中を分解して捉え直すと「金銭」が動いている。
このように考えると、福祉や支援はサービスといえることになり、「金銭」がやりとりされるのは当然である。ただその「金銭」は利用者が直接払っているわけではない。ここに問題の一つがある。「サービスを金で買う」とよく言われるが、その中身は全て買い手即ちサービスの利用者の負担によって賄われている訳ではない。税やある時は保険などの公的資金、あるいは寄付金といった利用者が負担せずに済む「金銭」が含まれている。そして、作業所などにおいてその「金銭」を背景にしたサービスの結果として、訓練手当の発生という込み入った事態を生むこととなる。どのような種類のものであれ、ある程度高額になるであろう「金銭」が生み出すサービスの結果は、「作業」で得た「金銭」であり、助成金総額より遙かに少ない。それなら助成金をそのまま利用者に等配した方が金額的には潤う。就労に福祉的をつけて良いのかが問われる。福祉的就労である以上「作業代行」は当然であるといった解釈は、その当然という前提が間違っていると考える。福祉は「作業代行」ではなく「支援」や「共同」にある。但し、個人レベルでの「作業代行」が行われる事例がある。その際重要なのは利害関係の一致であり、厳密にいうとここで取り上げている「作業代行」に当たらないが、エピソードを2つ挙げる。

〔エピソード 3〕
生活保護で生活をしている人がいる。その人は食費を削ってでもCDやDVDを買うほどの
音楽好きである。もちろん行きつけのCDショップがあり、そこで買い物をしている。その店
では品物を買うと金額によってポイントがたまり、一定ポイントがたまると金券がもらえる仕
組みになっている。一方でCDは欲しいが対人恐怖で初めての場所や慣れない場所に行くこと
が苦手な人がいる。この人が「CDを買ってきて欲しい」という依頼を彼にする。「ポイント
がもらえれば買ってこよう」ここで双方の利益が一致する。「CDを買いに行く」という「作
業代行」がポイントをもらえるという利益となる。

〔エピソード 4〕
作業所で出会い仲良くなった人たちがいる。しかし一方は病状悪化のため作業所に来られなく
なり、引きこもってしまう。職員とも連絡がつかない。ただその人は、食事は家族が作ってくれ
るが欲しいときにタバコやジュースなどが買いに行けない。話し相手が欲しい。しかし昼夜逆転
の生活のため、面と向かって話す友人も居ない。家で飼っている犬の散歩が役割だができない。
一方で食事を安価で食べたいというニーズを持っている。家に帰っても一人なのでやることが
ない。ある日「家に来て犬の散歩してくれないか?その後夕食を作ってもらうので一緒に食べよ
う」という誘いかけを携帯電話でした。その後、作業所の帰りタバコやジュースを買って犬の散
歩をしに行くその人がしばしばみられた。ここでも「作業代行」が行われているが、それは等価
交換である。外部からみると妥当ではない、とみられるかも知れないが当人同士にはきわめて合
理的なやり方であろう。

これらのエピソードから、「作業代行」には、等価交換であれば妥当である。という側面が見えてくる。それは「作業代行」を行う人たちが「妥当である」と判断したときに起こるようである。ただ、客観視したとき「妥当でない」と見える場合がある。施設の常識、世間の非常識という言葉が使われることがあるが、ここでもその一端が現れている様に感じる。

4 何故、作業所に来るのか?
何故、作業所に来るのか。入所に当たってその目的を聞くと、「生活のリズムをつけるため」、「人間関係の練習」、「日中の行き場として」、「一般就労へむけての練習」などがあがる。しかし、それは利用するその人のニーズそのものでは無いようである。ニーズ達成に向けての手段であり、方法でしかない。また、医師やワーカーの薦めでやってくる人が殆どで、精神障害者の場合、福祉という生活の場面と医療が密接に絡んでいる。生活のリズムをつけるためには特に「作業」という方法を採る必要がない。人間関係の練習や日中の行き場所に至っては訓練手当を発生させる「作業」で無ければならない必然性がない。一般就労へ向けての練習という事由は独自のプログラムを組み、就労支援をサポートしなければ、漫然と作業所に来ていても現実、なかなか困難である。
働きたいが故、作業所を利用し、働きたいが故、作業所を去った人の例を2つあげる。

〔エピソード 5〕
  入所面談の際「とにかく働きたい」という希望で体験的に作業所を利用した人がいる。体験期間は
二週間。毎日の利用で作業開始から終了まで休みなしに作業についた。いざ本入所となって「正式入
所になれば、働くところを紹介してもらえるのですね」と言う。職の斡旋は、ハローワークしかでき
ない。ただ、ハローワークには職員が一緒にいける旨を伝えると「自分で探すので必要ありません。
作業所は職場ではありません。」といって本入所を断り利用中断。

〔エピソード 6〕
生活保護を受給しているので、働いて収入があると、収入分生活保護をカットされる人。しかし、
その人は工場で働いていた。その分はもちろん申請し生活保護費は減額されていた。そうしているう
ちにその工場が倒産。働く場を求め作業所に通う。2年程たったころから、昼休み中も1人で作業を
する。そうしているうちに、休憩中の利用者にも作業を強要するようになった。利用者からの訴えで
強要することはしないとするものの、作業中に他の利用者が喋りながらやっていることに腹を立てる。
他の2カ所の作業所を紹介し、体験的利用をするも作業をこなせない。自分ができないことに腹を立
て作業所の利用中断。その後、とあるNPO法人に所属しボランティアで駅前の不法駐輪の自転車の撤
去作業をやり始める。収入があってもなくても、生活保護が生活の糧の基盤なので金銭的向上は見込
めないが、働くことに意味を求めているように思える。作業所には月1回程度近況報告に訪れる。



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第2章「作業」とは作業所においてどんな意味を持つか?

1 可能性としての定義
・その作業所で中心的な活動
 一時期「作業をしない作業所」というものがあった。それらの多くは、食事作りや新聞づくり、サロン会の開催など「金銭」を生まない活動を行っている。しかし、その役割は「精神障害者地域生活支援センター」という別の施設の機能と重なる部分が多いので、「精神障害者地域生活支援センター」に移行するか、別の道、つまり「作業」をする作業所に変わっている。これまで記述した内容からいうと中心的な活動とは、内職作業、お菓子づくり、弁当づくりとなり、事実、作業所の殆どの時間がそれらに充てられ、利用者の作業所での時間の使い方の殆どがそれに費やされてれている。これらの「作業」は何らかの「金銭」を生み出す。そしてそれは訓練手当の配布といった形で消費される。
対して、「金銭」を生まないが作業所にとって必要なもの、いう作業がある。ここで注目したいのは、必要であるという主体は作業所であって、利用者ではないという点である。例を挙げると、所内掃除や新聞づくり、年賀状作成などである。所内掃除は業者に行ってもらう手があるし、工賃を生み出す工夫として「請負」をさせることもできる。「請負」とは、掃除を専門に行う利用者を募り、他の2カ所の作業所に出向き掃除を行う。自分の作業所も、他の作業所の利用者が掃除を行う。金銭は施設運営補助金から委託料の名目で支払う。このようなことが考えられる。現に大きな会社やビルには専門の業者が入り、掃除を行っている。しかし小学校などの教室は生徒が自分たちで掃除を行う。小規模の会社等もそうだ。仕事がそこまで細分化されておらず、気がついた者や当番で行っているのが通例だ。新聞づくりにしても、自分たちの作業所の紹介のページを1ページ持っているが、それを書いたところで直接金銭は生まない。商品の宣伝として使う手があるが、それが金銭を生んでいるという感じは受けにくい。年賀状などに関してもそうだ。ここで、「金銭」を直接生むか生まないかを感じるか否かは、作業をみていく上でとても重要な事だと言える。
「浦河べてるのいえ」では商売をしている。内職作業があっても、それは商品を職親に納品して工賃を貰うそれとは性格を異にする。自分たちで売る商品を作っている。実際行っている作業が金銭に直結している。内職作業などでは、月の工賃が作業所の通帳に振り込まれ、その管理は職員が受け持つ。その為、「今行っている作業が金になる」という意識は希薄だ。菓子づくりや弁当づくりは販売までする。だから自分たちが行った分が「金銭」として実感できる。売れる物を作るという工夫が生まれる。掃除にしても店を営むうえで重要だ。「金銭」を生むことに近い作業は「作業所にとって必要な作業」から「自分にとって有益な作業」へ転換を果たす。このことによっても作業を定義づける上で「金銭」は重要なキイワードと言える。

2 作業が持つ意味とは(仮説として)
「金銭」のやりとりを軸に以下のような仮説を立てる。
・社会とのつながりを持つ方法
・作業や商品を通してのコミュニケーションツール
・小遣い稼ぎ
・副次的効果
・一般就労への準備
・トラップ(罠)
以上6つの仮説を立て、それぞれを検証したい。

2-1 社会とのつながりを持つ方法
利用者と「何故作業をするのか」といった話をしたことがある。そのときの答えが、「自分の作った商品(内職で作ったショッピングバック)が店で売られているのを見た時『自分も役にたっているのだ』と感じた」という声が聞こえた。その会社の製品を内職作業として請け負っている事は事実だ。しかし、売られているそのものが自分たちが作ったそれとは限らない。しかし、「社会の役に立つ」と感じたのは何故か?これが仮に売られているのではなく捨てられていたらどうか。あるいは無料で配られていたらどうか。反対に売られていてそれを買っている人を見たらどうか。自分が作ったか否かは別として、自分たちが作った物もどこかで誰かが「金銭」を出してまで必要としている、と感じること。これを彼らは「社会とつながっている。誰かの役に立っている。」と表現した。
また、バザーなどで「販売」という「作業」がたまにある。参加する人は少ないが、「いつも、おたくのクッキー買っているわよ」という声が聞こえる。固定したファンがついている。これも「金銭」を通してのやりとりである。今買ったか、以前買ったかの違いはあるにせよ、自分たちの製品が「金銭」を出してでも必要だ、という社会的評価をうける。洋裁品を買ってくれた人から、毎年年賀状がくる。それに対して自分たちで返事を書く等も社会的評価の一つの表れとしての例である。ただ、お菓子を作っていない利用者にとって、あるいは洋裁品を作ったことのない利用者にとってはこのような喜びは生まれにくい。そこには「金銭」を生んだ当事者としての自分が無いからだ。

2-2 コミュニケーションツール
「作業」を意味づけする二つ目の視点として、コミュニケーションが挙げられる。そしてこのコミュニケーションは、どういう時に、どんなスタンスで、当事者がいるかによって変化しうる。また、媒介する物が変わることによってもその様相が変わってくる。なんらかの「作業」を行う時、個人で動ける場合と他者と協力して行わなければできない場合がある。後者の場合、手段はどうであれ意志疎通を図る必要がある。意志疎通をしなければ「作業」ができない場合、「作業」という行為を通してコミュニケーションが発生せざるを得なくなり、コミュニケーションがうまくいかないと「作業」もうまくいかないといった事態も考え得る。
実習生を受け入れる時、「何をすればよいですか?」と聞かれることが度々ある。その様な場合、たいがい「何もしなくていいです。利用者の横に座っていてください」と答える。その答えを聞いた実習生は困り果てる。その後「何もしないで横に座るのはしんどいですか?」と聞くとおおむね「困ります」と答える。「では、挨拶をして何か話してください」と水を向けると「何を話せばよいのでしょう」と質問を受ける。実習生には迷惑な話だが、困るのはもっともだ。今日初めて会う人と数時間の間に何を話せばよいのか。新しく入所し利用を開始した人もそうだろう。「いったいどんな人たちなのだろう。何をすればいいのだろう。誰と何を話せばいいのだろう」と考え、困る。こういった場合、「作業」がコミュニケーションの媒介となることがよく分かる。実習生の場合でも、初めて作業所を利用する人の場合であっても、作業についてやり方や、コツなどを利用者に聞く。「誰か教えてください」というだけでコミュニケーションの導入となる。
 一方で「作業」自体がコミュニケーションツールと考えられる場合もある。自分たちで作った製品を売る場合、その売るという行為を「作業」と考えれば、注文を受け品物を用意し、「金銭」を貰い品物を渡す。一連の流れは他者とのコミュニケーションといってもよい。コミュニケーションは言語(音声、活字、身振りなど)を使って行うとは限らない。スポーツやゲームあるいは、先ほど例に出した「金銭」の受け渡し、つまり売買などもコミュニケーションツールである。何らかの物事を発信し受信する。その目的が渡す側と受ける側に共通の認識があればコミュニケーションと言えるのではないか。
この売買行為で、共通の認識になるのが「金銭」である。「社会とのつながり」でも述べたように、「作業」を通してできた商品は何らかの形で社会に流通する。そして対価としての「金銭」が社会側から入ってくる。この構造そのものがコミュニケーションであるし、商品と「金銭」の動きに従う一連の流れに、挨拶やお礼などの言語を介したコミュニケーションが付随してくる。

2-3 小遣いかせぎ
作業所で「作業」をする。何らかの「金銭」が発生する。その発生した「金銭」は利用者の総作業時間で割り、時給を算出する。それに各個人の作業時間をかけて1ヶ月の訓練手当という名称をもって利用者に渡される。このことは前述した。その額が内職作業所で大体1時間当たり100円、一人当たり月6000円程度である。これは訓練手当としては多い方であるという。重度の知的障害、身体障害を持つ人たちの通所施設は、これの半分程度であるところも珍しくないという。訓練手当としては多額かも知れない。しかし、それを生活の糧として当てにするには金額が少なすぎる。実際、精神障害者の場合そういった人は少ない。生活のための資金は、家族の援助(同居し衣食住を確保する)や年金や生活保護費によるものが多い。年金にしても精神障害者の場合、発症が青年期前半であるが故、掛け金を払っていなかったとして無年金の人が多い。
また、生活資金がすぐにでも必要な人、つまり食ったり寝たり着たりしたりすることがすぐに必要で、そのために金がすぐに必要な人たちは、作業所に通うことがない。作業所を医療機関や市の福祉事務所で紹介されても手当の少なさに断る。まず必要なのは、食品であり、着る服であり、住む家であり、それらを手に入れる「金銭」である。作業所はこれらを早急に必要とする人に対し、何も担保できない。実際に訓練手当の使い道で一番多いのは自分の小遣いである。前述通り、必要な物(衣食住)は別で確保されている。中には家族に渡すという人もいる。しかし、訓練手当だけでその人の必要最低限の生活が守られているとは考えにくい。実際にそうせざるを得なかった場合は、就労支援を申し出て、作業所外での一般就労を目指すケースが考えられる。訓練手当だけでは生きる糧としては少なすぎるのだ。

2-4 副次的効果
 「副次的効果」という言葉は福祉現場で以下のように使われることはない。期待通りの効果が無いサービスやプログラムが、思わぬところで功を奏したといったことは、多くの福祉の場面でみられるように思える。元々その人は「一般就労がしたい」という理由で作業所にやってきたとしよう。作業をすることで金を得る。コミュニケーションを生む。社会参加ができる。全てが作業所の中で完結してしまう。「一般就労」は影も形もない。しかし、その人にとっては豊かな生活ではないだろうか。やりがいのある日々ではないだろうか。
「生活のリズムを安定させたい」という人がいる。「作業」をすることで「生活のリズム」は安定してきた。だからといって「訓練手当」はいらないのか。そうはならないだろう。「副次的効果」が作業所の行う活動の大半を占める。「作業」をすることで、作業所のこれら「副次的効果」としての恩恵を受けることができる。作業所が「模擬社会化」することによって、利用者にとって苦手な場所や場面で金を得たり、コミュニケーションを持ったり、直接社会参加したりしなくてすむ。毎日行く場所ができ、「作業所」あるいは「作業」を行うというフィルターを通して社会と接している。そこでは狭い意味での「完結した社会」が存在している。この完結しているところが「副次的効果」を生む所以であり、プラスの面でもある。利用者その人にとって「作業所で作業する」ことは、自分で選択して生きていくことである。生活していると感じ、事実生活の一部になっている。これは特に作業所であるからという理由ではない。ある組織から、あるいは大きな枠組みでいったらその人が住むその世界を別の場所や視点から見ると「何か変だ」といった様なことはよくある。身近なところでいうと、ある産業や業種特有の言葉の使われ方がある。例えを出すと、「生保」は一般では「生命保険」を意味するが、福祉のある限られた分野では、「生活保護」を指し、共通認識の下、使っている。大きな枠で言うと、文化の違いや生活習慣の違いなどだ。日本での手招きは欧米では「追っ払う仕草」となるのはよく知られている。どれが正しいという事はない。ただ、大きな枠組みから、内在する小さな枠組みをみた時、まやかしのような感じをうける。しかし、小さな枠組みではその行為や習慣は現実であって疑うところがない。「作業をする事は社会参加であり自己実現である」と言う人に「それはまやかしです」といっても通じないし、「生活リズムを整えたい」人に、目的が達成されたからといって訓練手当を渡さない事はない。そこで生活している人にとってはそれが現実なのだ。
 日本の通貨は円であり円でモノやサービスを買うことができる。作業所ではタバコが貨幣に近い使われ方をする。作業所を利用している人の九割近くがタバコを吸う。しかも一日に数箱と言う人も少なくない。タバコは趣向品ではなく生活必需品である人が多い。故に大切なモノである。一番の金の掛かりどころらしい。ある人がタバコを切らす。誰かに貰う。後日その貰った数本とお礼の数本を返す。自分の悩みを聞いて貰った。お礼にタバコを数本渡す。ジュースや昼食をおごって貰った、数日後タバコを一箱。その出すタイミングや、相手の気分を読み進めるタイミングは絶妙である。「その時その人に」、がピッタリ当てはまる。自分の前に座った人が不機嫌そうな時、何かをして貰ったらお礼をした方が良いような人の場合、タバコが登場する。自分に不利益が生じない場合、いくら他人が不機嫌でも、良くして貰っても、タバコは登場しない。それが作業所の現状で現実なのだ。「そんなのおかしい。まやかしの人間関係だ」と言っても、作業所の中ではそれで円滑に生活ができる。作業所は模擬社会、そこで行われている「作業」の「副次的効果」は様々である。作業所内では問題にならないし、そういった意味合いでは作業所内で完結する世界の方が好都合である。

2-5 一般就労への準備
作業所で就労へ向けて訓練をする。こんな比喩がある。「真空状態で掃除機を使うようなもの」、「バスタブで水泳を教えるようなもの」。ここまで言わないとしても、近い印象を受ける。内職をする、あるいはお菓子を作ったり弁当を作ったりする。しかし就職するのは内職屋でもお菓子屋でも弁当屋でもない。「作業」をすることで、身に付いたスキルというのは、ごくごく基本的なところのものしか役に立たない。しかし、入所に当たって作業所の利用目的で一番多いのは「仕事がしたい。その練習です。」というものだ。作業所の「作業」ができるのと就職先があるのとは別問題だ。能力と雇用には、入り口ではあまり関係がないように思える。「一般就労の準備のための作業」というようにはなかなかいかない。
しかし、作業所を利用して一般就労に結びついた事例もある。ただ、ここには「就労する事は簡単だが継続する事が困難」という現実がある。精神障害の場合、一般就労に当たっては病気の開示という問題に突き当たる。ここ十年ぐらい現場にいての感想だが、「精神障害があるから採用しません」という会社は減っている。ただ、「仕事を決まった時間に決まった分だけやって欲しい」という企業側のニーズがある。特殊なスキルを要しない仕事であれば就くことができる。こういった意味では、「作業」は一般就労への練習となりうる。しかし「継続して一般就労といえる」となると「作業」は一般就労への準備支援策とは言えない。
もう一つの視点として、「作業」を福祉のツールとしてサービス供給者側、つまり支援者側が認識していない点がある。「作業」を福祉サービスのツールとして考えた場合、利用する人によってその意味合いが変わってくる。「就職がしたい。だから作業所にきた」という人と、「人間関係の練習に来た」人と「生活のリズムを付けに来た」という人に対して同じ内容の「作業」というサービスが供給される。このような事態を避けるために様々な種類の作業所が同一運営母体に作られる。しかし実際はその人のニーズに合わせて「作業」をコーディネイトする事は難しく、「作業所」を通過施設だと位置づけ、ニーズを把握しその人にあった支援計画を立案、実行出来ているところは少ない。「作業所」利用に時限が設けにくい。通過施設としての機能が果たせていない事実も、これらの理由によるところが多いのではないか。

2-6 トラップ(罠)
今まで述べたように「作業」の意味付けが様々に出来る。そしてそれはそれなりに「作業」の持つ一面を表している様に思える。反面、それ故に支援として新たなものが創設されにくくなってきているのではないか。「作業」に明確な意味づけが出来ないのであればそれは支援としての活動の意味を持たないし、「作業」という手法以外の支援策や方法が提案されるべきである。しかし現状は上記のように一定の意味を持ってしまう。有益かどうかが議論されないまま、この「一定の意味を持ってしまう」ところに罠があるように思える。利用する側も、「作業」にそれらの意味を見いだすが為に、自分自身の社会参加のあり方や、就労などへの意識が「作業所で作業をしているのだから、社会参加だし貢献である。お金も貰っているから働いていることになる」といった意識にすり替えられていく様な危惧がある。(このことについては「副次的効果」の項で述べた。)これらは新たな支援を作業所に機能として付置できなかった要因でもあるかも知れない。
支援をする者が何の疑いもなく「作業」を「支援」として提供する。受け手側も様々な意味づけで「作業」を捉え、それに従う。しかし、障害者や支援や福祉という要素を取り除くと「低賃金、しかもきわめて少ない金で人を働かしている」という事実しか残らない。「作業」は福祉施設で行われている限り、福祉サービスであるはずだ。何らかの社会的不利益を蒙った人たちを何とかその生活の質を向上させる。これが福祉の一つの見解だろう。しかし「作業」をして「何とかなった」気がしないのは何故だろうか。
 作業所で「作業」をする。つまり、作業所を利用する。利用とは、その人の生活の断片やある一定期間において関わるということではないだろうか。しかし、実際作業所に来て十年、二十年という人たちがいる。現在、医療が抱えている問題に「社会的入院」とい事態がある。これは明確に定義付けされてはいないが、『精神保健福祉辞典』(3)によると、「医療上入院の必要性は無いにもかかわらず、社会府福祉制度の不備や差別・偏見により入院を余儀なくされている状態をいう。」とある。これに似た現象が作業所でも起こっている。入りやすい、しかし出にくい。支援者、利用者が「作業」を自分の都合の良い側面だけで意味づけること、つまり「作業」という罠に掛かってしまったら、なかなか抜け出せない。作業所とりわけ「作業」に関わる人たちは罠に掛かっているようだ。「作業」が罠だという見解の要因の一つとして、社会参加や自己実現という言葉の使われ方にあるようにも思える。社会参加や自己実現が果たして作業所で「作業」をすることなのだろうか。社会参加や自己実現の具現化は人によって違うので定義付けがしにくい。しかし、「あなたの今できることは作業所で作業をすることです」と言われてしまったらどうか。
福祉現場では、利用者の自己決定が最重要のごとく言われる。しかし福祉サービスの中での自己決定など自己決定とはいえない。選択肢が数種類のなかで選んだところで、本当にその人のニーズを反映しているとは思えない。また、障害を持たない人がどれだけのことを決定しているのかも疑問だ。社会参加や自己実現、自己決定という言葉が「錦の御旗」のごとく使われ、その内容や選択枝を吟味しない支援者も、罠に掛かっている様に思える。

3 戦略としての選択
ここまで、「作業」を様々な切り口から定義付けを行ってきた。述べてきた中で「作業」というものがネガティブに感じられるのは何故か。それは、「作業」を行う障害を持つ利用者達と支援者や家族の間に「作業」の意味づけの差異があるからだ。「作業」が生まれたときから時間がたつにつれ、「作業」の意味づけも、家族や医療機関あるいは支援者から実際に「作業」を行う利用者によってなされるようになった。家族の都合や政策の動向に「利用者の選択」という要素が加わる。これは特に珍しい現象ではない。ただ、「作業」を利用者が意味づけていることに無意識である点が、周囲にネガティブな印象を持たせるに過ぎない。政策や支援者の理屈は一見筋道が通って聞こえる。これは「社会」にとって都合の良い、あるいは反論しにくい理屈だからだ。一方で利用者達の意味づけは、個人の生きるための戦略という要素が強いため社会的規範とかけ離れることも少なくない。「作業の中抜け」等がよい例である。「眠いから作業はしない。もし自分が眠いときは作業をしないで中抜けをする。だから否定はしない」これは、社会的規範を別に考えるなら、これは真っ当なことで、「福祉はよりよく生きるためのもの」であって「福祉は不幸な人を救うもの」ではないことを示している。これらのことは「作業」という手法だけに限った事ではない。「福祉」を生の戦略として利用している人は多い。ただ、社会的規範を無視してしまう場合もあるので「社会」という多数の同意は得にくい。「福祉」を生の戦略として使う人の例として以下のエピソードをあげる。

〔エピソード 7〕
生活保護を受給して単身生活を送る人がいる。金銭管理がうまくいかないからか生活費が月末にな
ると底をつくこともしばしばある。ある時、次の生活保護費受給日まで一週間の時点で金が底をつきた。精神障害があるが故働くことが困難で生活保護受給になった理由から、精神科への受診は、欠かさな
い。勿論医療費は生活保護で賄われる。そこで精神科を受診し入院を訴え一週間の入院をおくる。入
院する事によって食費や光熱費による出費はない。無論入院の費用は生活保護で賄われる。一週間の
入院を終え生活保護費を受給し生活が始まった。

 生活保護のルールや社会的規範としては明らかに反則だ。しかし、一週間という期間を無事送ることが出来たことは事実だ。「福祉」あるいは「医療」を違う意味づけで使い生活をしている。入院の診察を下した医師の倫理も問われるが、「福祉」を提供する者としてまた観察者として、「福祉」を生の戦術として利用している姿に力強さを感じたエピソードだ。

4 場としての作業所
 「作業所」とはいったいどんな所なのか。作業所における中心的な活動である「作業」を通して、作業所について述べてきた。「作業」がもたらす「場」としての効果はリハビリテーションという回復の場であり、賃金労働の場であり、あるいは家庭のような場でもある。しかし、これらはどれも断片しか示すことは出来ない。「社会」での生活のしづらさが作業所ではそれほどではない。だから、多くの社会での生活のしづらさを抱えた人たちが集ってくる。この作業所の過ごしやすさは、「社会」との隔絶が大きければ大きいほど高くなるように思える。勿論、功罪は存在する。作業所という「場」で生活の全てが完結するはずはないし、またそうであってはならない。なぜなら、その行為は「隔絶」ではなく社会の側から見れば「隔離」だからだ。この「隔離」を「社会」側、主に行政があたかも「そのような行為をしていません」と示すために作業所という名称をつけそれを認めたともいえるのではないか。無論、それだけの理由で作業所という「場」を定義づけることは出来ない。「社会」のなかには様々な集団が存在する。営利という共通項によって集まった企業がある。企業間でのやりとりは「金銭」が絡み、我々の生活と密接に結びつく。企業で働き、金を得、企業が製造流通させた品物を買う。作業所でも物を作り、販売などを行う。しかし、そこには営利という目的がない。そのため、作業所で作ったとしてもあまり生活という「社会」と結びつかない。これらの「社会」との密接具合の希薄さが「福祉施設」や「障害者」への偏見の助長となり得はしないか。
 一方で「隔絶」された、あるいは「自己完結された作業所」だから出来る所属感も生まれる。過ごし易さも「自己完結された所属感」からくるように思える。その「所属感をもつ作業所」をフィルターとして社会と関係をもつという方法が、作業所のもつ「場」としての力ではないだろうか。また、一方で、「社会」のあり方が変わることによって作業所という「場」を必要としない人もでてきている。以下は、就労の形態が変容したため作業所というフィルターなしで「社会」という場で生きることを選ぶ事ができた人のエピソードである。

〔エピソード 8〕
作業所で作業を続けていた人がいる。しかし、中抜けや早退がおおく、おおよそ作業所になじんで
いるとは言い難かった。ただ、一般就労という希望は持っていたため「職親制度」を利用し訓練を受
けるようになった。一定期間が過ぎて「職親」の関係から「雇用関係」にこぎ着けたが、1ヶ月ほど
でやめてしまった。理由は「一般雇用は厳しくて無理」というものであった。その後、アルバイトな
どを探し勤めるも長続きせず、作業所にもしばしば顔を見せるようになった。
ある日、人材派遣会社に登録をする。そして、食品加工会社で働き始めるが長続きはしない。しかし、派遣会社なので次の仕事はあるにはある。その後、工場内作業、引っ越し、宅配便の仕分けなど職を
転々とするが、本人曰く「嫌なら変わればいい。一カ所で我慢するよりも今の自分の調子に合わせて
仕事が出来れば何処でもかまわない」。約半年、今も派遣会社を利用し、働いている。

このエピソードの様に「社会」、特に就労形態の変化が精神障害を持つある人には都合が良かった。就労形態だけではなく、商品を購入する際や食べ物を得る際も20年程昔とは違ってきている。とベテランの保健所職員はいう。コンビニエンスストアの登場である。精神障害を持つ人の中には昼夜が逆転している人が少なくない。昔ならば、夜中空腹を満たすことは簡単ではなかった。しかし現在では、コンビニエンスストアのおかげで夜中だろが明け方だろうがレンジで温めた弁当が手に入る。作業所というフィルター以外にも「社会の変容」は生活者である作業所利用者にとって都合がよいこともある。「社会」が変容した形態が作業所なのか、あるいは障害を持つ人たちにとっては「社会」が作業所に近づいてきているのか。安心感はそこで行われている「作業」そのものに由来するものではない。作業所という自己完結したが故の模擬社会がもたらし、そしてそこで行われている「社会」と一風変わった等価交換と共同が作業所の「場としての安心感や所属感」という特徴を表しているのではないか。



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第3章 作業所とクラブハウスモデル
 作業所の今後を考えるとき、しばしばクラブハウスモデルが登場する。通う場所、集う所としては作業所と似ている部分はある。しかし、クラブハウスは工賃の発生する「作業」は行わない。また、クラブハウスでの仕事と収入を得るための仕事を明確に分けそれについての支援策も持っている。では、クラブハウスとはいったいどういったものなのか。何処が作業所と似ていて何処が作業所と違うのか。

1 クラブハウスの成り立ち
クラブハウスは1940年代のアメリカ合衆国のニューヨークで生まれた。精神病院の解体が行われ、精神障害を持つ人たちがストリートピープルとなった。その時に精神病院を退院した数人が集まり、「自分たちも社会の役に立つ事ができ、同じ境遇の仲間を支えたい」と考え、「WANAクラブ(We Are Not Alone)」「自分たちは1人ではない」というグループを結成したことに始まる。このとき「WANAクラブ」には独自の場所が無く、公共図書館や階段でミーティングなどを行っていた。このように当初4人の精神障害者が自助の目的で集まったのがクラブハウスの始まりである。その後1948年にマンハッタンの1つのビルを手に入れることができ、そのビルの中に「泉」があったことから「ファウンテンハウス(fountain house)」という名が付けられ、それがクラブハウスの原点とされている。(『We Are Not Alone クラブハウスモデルって何?』(4)より引用。)
その後、ソーシャルワーカーが関わり、就労に対する支援が当事者とスタッフの手で行われるようになった。福祉制度において、スタッフと利用者の関係は、「支援する側」と「支援される側」というものである。しかしクラブハウスではそのような関係はなく、サイドバイサイドというパートナーシップの関係が根底にある。そしてクラブハウスでは、当事者その人のことをメンバーと呼ぶ。作業所で利用者を仲間と呼ぶように、である。ちなみに、作業所の中でも精神障害者支援を行っている作業所では、仲間ではなくメンバーという様に呼ばれる。これはクラブハウスモデルから来たものと考えられる。職員のこともスタッフと呼ぶ。この章では利用者のことをメンバー、職員のことをスタッフと呼ぶこととする。何故当事者のことをメンバーと呼ぶのか『We Are Not Alone クラブハウスモデルって何?』(4)によると、「クラブハウスは同じ思い、目的、理想を持った人たちの集まりであり、サッカーやゴルフのクラブハウスと大きくは同じ意味である。その為、クラブハウスは他の人から強制や命令をされる場所ではなく、自らの意志が尊重される場所である。クラブハウスでは治療の対象者としての『患者』『クライエント』『元患者』ではなく、クラブハウスコミュニティを築く大切な『仲間』、同じものを目指している『パートナー』としての存在なのだ。よって、地域で暮らしている人も人間として彼らのことを『メンバー』と呼ぶ。」とある。「作業代行と合理的配慮」の項で紹介した、作業所に通う当事者を「仲間」と呼ぶに当たっての経過や考え方と似ている。ただ、疾病と障害が共存すると言われている精神障害者の障害特性が伺えることと、誰が「仲間」と呼び始めたのか、誰が「メンバー」と呼び始めたのかによってその特徴は大きく変わってくる。そこに福祉という枠か、自助という枠かをうかがうことができる。
クラブハウスのメンバーになるために必要な資格・要件は2つあると述べられている。まず、精神の病を経験していること。そしてクラブハウスのメンバーになりたいと思っていること。メンバーになるためにはオリエンテーション、体験通所等はあるが、本人の希望、意志を最も重要な要件としている。しかし、クラブハウス内の安全を脅かす人はのぞくとある。現在、全世界にクラブハウスは400カ所以上ある。その内訳は、アメリカ合衆国に約200カ所、ヨーロッパに約70カ所、アジアに約15カ所ある。そのうち日本ではJHC板橋サン・マリーナ(東京都板橋区)、ストライドクラブ(東京都渋谷区)、クラブハウスはばたき(東京都小平市)、ピアステーション・ゆう(奈良県奈良市)の4カ所である。奈良市にあるクラブハウス「ピアステーション・ゆう」には見学にいき、また交流会を開催して様々な意見交換ができた。ちなみに作業所は精神障害者支援を行っているところだけで1600カ所以上ある。何故、作業所に比べクラブハウスは数が少ないのか。それには2つの要因が考えられる。 
まず、作業所が日本発祥のモデルであり、日本の福祉の有り様と共に変化し増えてきたこと。行政ができない福祉の実践を民間で行っている。社会福祉法人でも財団法人でもない無認可作業所が、福祉というなら本来行政がやらなければならないことをやってきたという実績と、それを認めざるを得なかった行政の施策の遅れが考えられる。この実績のため無認可作業所には地方公共団体が独自の要項を作り、助成金を作業所に対して出してきた。ここでは、地方公共団体が独自に助成金を出す功罪も含まれる。それぞれの市区町村によって助成金体系がバラバラで地域によって格差が生まれる。一方でクラブハウスモデルは、作業所とは活動内容を異にしているため、作業所の補助金がつかない。では、クラブハウス独自の補助金を作れば良いのではないかと考えるが、実績や、そもそもの個体数が少なすぎるため認知がされていない。これらのことから、クラブハウスがストレートに補助金を得て、建物を借り、スタッフを雇うことが難しい。「ピアステーション・ゆう」は制度上、精神障害者小規模通所授産施設として登記がされ、奈良市から補助金が出ている。
もう一つの理由として、クラブハウスを名乗るには定められた研修を受ける必要がある。その研修は「ICCD(Internatinal Center for Clubhouse Development)国際クラブハウス開発センター」に認定を受けたクラブハウスに於いて、3週間のトレーニングをメンバーとスタッフが受けるというものである。研修内容は、クラブハウスの歴史や理念についてのディスカッション、活動への参加など「クラブハウスに関する幅広い活動を経験する」といったものである。
 土着の福祉と外来の考えと実践。それらの中で行われていること自体に相違はあまり感じられない。しかし、詳しく分析してゆくとその表層的な行為に込められている理念や哲学がその出発点と今日までたどってきた道のりの違いを物語っている。

2 クラブハウスの機能
クラブハウスの機能として注目したいのが、ある時は支援を受けていた人が、違う場面では支援を提供する側に回る。それが「仕組み」として構築されていることにある。「相互支援モデル」とも呼べるこの仕組みは、クラブハウスが、ただセルフヘルプグループが出発であったからできた訳ではない。この支援の循環はクラブハウスに集まったメンバーの意志だけではなく、その理念とそれに基づく活動にも伺える。クラブハウスの活動には、ミーティング、ユニット活動、過渡的雇用などがある。「ピアステーション・ゆう」でのミーティングは、朝、昼、夕とあり朝・昼のミーティングでは、昨日の過ごし方の報告やその日の過ごし方、あるいはその日の気分を言い合ったり聴き合ったり、メンバーの就労状況の確認などが行われる。夕方のミーティングではその日の過ごし方の発表や、ジョーク発表会等が行われる。これらのミーティングの司会や議事のホワイトボードへの記載なども、メンバー、スタッフ関係なしにやりたい人あるいはやれる人がやる。ここで特徴的なことにホワイトボードの活用がある。「クラブハウスはホワイトボードの文化」といったのは「ピアステーション・ゆう」のスタッフだが、今日のそれぞれの仕事が誰の担当かホワイトボードにミーティングしながら書き込んでいく。ホワイトボードをみれば、今日誰が来ていて何をやっているのかが一目で分かる。それと同時に自分の「役割」を持つ意識が生まれる。ユニット活動とは、メンバー、スタッフでクラブハウスの運営に必要な仕事をすることである。「ピアステーション・ゆう」では、キッチンユニットと事務ユニットに分かれて活動していた。キッチンユニットではその日に来ている人たちの食事を作る。もちろん実費が必要で、買い物から後片づけまでやる。事務ユニットでは日刊紙、「デイリーゆう」を作り配布する。クラブハウスに来られていない人への連絡、友愛訪問、海外のクラブハウスへの手紙の翻訳やメールのやりとり、見学者への説明なども行う。
  他のクラブハウスでは事務ユニットとして、パソコン教室や小口現金の会計処理、受付ユニットとして利用料の会計、見学者への説明、メンバーの利用状況の把握などを行っている。これらのユニット活動は、クラブハウスにとって、あるいはそこを利用するメンバーにとって等しく必要であり、メンバー全員が必要とされる「役割」をもつ。賃金は発生しない。ただ純粋に必要な「役割」があるだけだ。ここで純粋と使ったのは、「金銭」がそこで発生するとその「行為」や、それを行うための「役割」は、その目的を「金銭」を得る手段に変わる可能性があるからで、全く全てが変わらなくても「役割を持って臨んだその行為」、つまり「作業」は金儲けのため、自分のためになる。これでは「相互支援」は生まれない。クラブハウスの分かりやすい部分は「作業」(クラブハウスでは「仕事」)に「金銭」を絡めていないところにある。そして、それでもなおクラブハウスへ来ることを望む人がいる。それにより「自助」が強調され、自分の為ではあるがクラブハウスのため、そこにはクラブハウスに通うメンバーのためであり最終的にはメンバーである自分の為であるという「相互支援」の循環に向かわせる。
では、「金銭」が欲しい人はどうするのか。単純に「金を儲けることの出きるところで働く」つまり一般の事業所で働く。そして、その為にクラブハウスはそれを担保する仕組みを持つ。それが、過渡的就労である。過渡的就労とは、通常の雇用関係においては、事業所と個人が契約し、労働とその対価である賃金が支払われる。それに対し、過渡的就労ではクラブハウスと事業所が契約を結び、メンバーが欠勤した場合、クラブハウスがその穴を埋める。クラブハウスはメンバーとスタッフの関係は対等なので、その穴埋めもメンバーが行ったり、スタッフが行ったりする。メンバーが誰もいないときは、スタッフが行く。そうすることで、事業所には欠勤というデメリットをもたらせない。過渡的雇用は基本的にパートタイムであり、通常週15~20時間、雇用期間は6~9ヶ月としている。そして、雇用である以上、メンバーは最低賃金以上で、一般事業所並の賃金を事業主から直接受け取る。
これらの「仕事と役割」をその実践から生むためにクラブハウスは週末は休みであり、夕方や夜は開所していない。これらの取り組みは「相互支援」という意識を生み、「金銭」ではなく支援が循環する。

3 作業所とクラブハウスの違い
 では、クラブハウスと作業所は何処がどのように違うのか。どちらも現象だけを追いかけると、日中ある場所に精神障害を経験した、あるいは現在も体験している人たちが集まり「作業」をしている様に見える。ただ、この集まる事の意味合いから違いがある様に思える。「何故集まったのか」。作業所はその人達の希望を叶える為の手段である。その為に各自それぞれの希望を持って集まる。福祉サービスを受けるために集まる。かたやクラブハウスではクラブハウスを存続させることに意味を感じて集まる。クラブハウスに通うこと自体に意味を見いだして集まる。助け合いが行われている「相互支援」の輪の中に自身の身を置く。支援の受け手だったその人が、支援をする側に回る場合がある。集まる場所にも違いがある。作業所や福祉施設は都市部から離れた場所にあることが少なくない。しかしクラブハウスは、活動の参加や過渡的就労に便利なように、身近な交通機関ができる地域に設置される。また、作業所にはスタッフの部屋がありそこで個人面談を行ったりするが、クラブハウスにはスタッフ専用の、あるいはメンバー専用の部屋はない。そして、スタッフと隔離された部屋で個人面談といった形で話はしない。そこで行われていることは「作業」(クラブハウスでは仕事)であるが、その意味づけがクラブハウスでは明確である。これはメンバーのクラブハウス内での「役割」をどのように作り出すのか、また、どうすれば社会の大多数の人たちの1日が実践できるのかを考えた上でのことである。即ち、クラブハウスでの「仕事」とは、その日を「仕事」によって律する手段のことで、その「仕事」は療法でもなく治療プログラムでもない。また、クラブハウスでは「金銭」を得るためには、外で働くことを考える。作業所のような福祉的就労(シェルターワーク)を仕事とするのは、低賃金で人を雇う人権侵害であるという考え方を持つ。運営方針も違う。作業所はスタッフがそのメンバーに福祉サービスを提供するという福祉的な手続きをふみ、運営委員会やスタッフ会議やケースカンファレンスなどが行われる。そこでメンバーのニーズをどのようにプログラムに反映させるかが延々と話し合われる。
クラブハウスではメンバー、あるいはスタッフだけの会議を持たない。クラブハウスにとって必要と思われる全てはハウスミーティングと呼ばれる、メンバーとスタッフ同席の会議にかけられ、検討され、決定される。書類なども全て開示される。ケース記録といった類の物は面談やスタッフだけの会議がないので存在しない。
 前述したが、作業所ではスタッフがメンバーの様々な相談を受ける。生活上で困った事について、金銭管理あるいは病状のことから、「何となく不安だ」等、漠然としたものまで様々な相談がある。しかし、多くの場合面談をしたら即、解決するような事柄ではない。面談をしたからといって劇的に気分が晴れたり、状況が一変したりしない。結果としてだが、ここでの相談はその問題を解決すると言うよりも、解消すると言った方が適当である。クラブハウスでは解決しない相談は受けないと言う。クラブハウスとメンバーの関係が明確である。それは、セルフヘルプという形、あるいはスタッフとメンバーのパートナーシップという形が実際の日々の活動に反映され、個人の問題解決の手法として表出していると考えられる。



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第4章 福祉と仕事の中での「役割」

1 仕事のあり方と「役割」
仕事を捉えていく上で、クラブハウス発祥の地のアメリカ合衆国と日本ではそのあり方や捉えられ方に違いがあるのではないか。例として、アメリカのクラブハウスで行われている過渡的就労先に大手企業のメールボーイがある。メールボーイという仕事。あまり聞き慣れないが、その企業に送られてきた郵便物を企業内の部署や人に配るという仕事である。日本においては、このような仕事が独立して存在していない。しかし、アメリカではメールボーイは仕事として認知されている。またこの仕事は過渡的就労のために無理矢理作った訳でもない。
日本で就労支援を行う場合、受け入れ企業側も頭を悩ますことが多い。ある仕事の流れの中で、この部分はできるが、その前後の仕事を含めると複雑で出来にくい。だから、その部分だけやらしてはもらえないか。という依頼をする。しかし企業側は、部分としてその仕事は独立しておらず、前後の行程とセットで仕事と見なす。例えば、メールボーイという「郵便物を配るだけ」の仕事は存在せず、備品の調達や会議の資料づくりといった仕事もしなければならない総務という部署がそれを行う。もっと小さな企業では気がついた者が行う。前述の掃除にしても、外部の掃除を専門に行う企業を入れているところもあれば、自分たちの事務所は自分たちで行う所もある。このように一つの行為が仕事として認知されているかどうか、仕事の細分化の進み具合がアメリカと日本、あるいは企業の大きさによって違う。この仕事の細分化が最も進んでいるのは、福祉現場という福祉的就労の場面である。作業所の「作業」、例を挙げると紙袋を作る内職作業。一つの紙袋が出きるまで、まず、紙を折り、セロハンテープで段ボールを貼り付け、紙袋の底に段ボールの中敷きを入れ、ビニールをかけ、持ち手をつけるための穴をあけて金具をつける。そこに紐をつけ、一つの製品になる。この工程を一人の人がはじめから全部行わない。紙を折る人、穴をあける人、金具をつける人と別れてやる。このような分業は自動車工場などの組立ラインなどでもみられるが、組立ラインが分業というその手法を取り入れたのは効率をよくするためで、作業所のそれと趣を異にする。作業所の作業の細分化は「できる人」が「できること」をするためで、効率を追った結果ではない。そこでは「役割」が生まれる。ただ、作業所での「作業」の細分化は「金銭」の伴わない細分化である。「金銭」という評価は、あくまでもできあがった紙袋の個数によってであり、共同作業としての評価である。この部分では「役割」という概念は希薄となる。
 このように、在る仕事をできるだけ細かく細分化する。そして、その一つ一つに「金銭」という評価をつける。「できる」人は多くの部分を組み合わせてすれば良いし、「できない」人はできるところだけをすれば良い。仕事を細分化することとそれを再構築する事は、障害を持った人たちが働きやすい条件の1つになる。

2 福祉と家族と役割の関係をどうとらえるか 
~ストリートピープル。この出来事からみた日本~
 1940年代アメリカで大精神病院が解体され、精神障害あるいは精神疾患を持ったストリートピープルが増えた。そしてクラブハウスができた。このことは述べた。では、現在、日本で於いて同じ様な状況は起こり得るのか。
まず、第一に精神科の病院が解体することは考えにくい。第二にストリートピープルになりにくい。社会的入院をしている人は厚生労働省の調べでは約七万二千人いると言われている。国はこの人達を地域に帰す取り組みを始めるらしい。その為に福祉施設の機能分化や地域で受け入れるための体制を作っている。その中に盛り込まれているのが、生活保護受給者にならないための手だてである。ストリートピープルになりにくいと考える要因に、生活保護という福祉が挙げられる。もう一つに福祉施設の存在が挙げられる。そして家族の存在が挙げられる。 精神保健福祉法(5)では家族とりわけ保護者の責任について以下のように記されている。
「精神障害者については、その後見人又は補佐人、配偶者、親権を行う者及び扶養義務者が保護者となる(第二十条)」。そしてその保護者の責任として、次のようなものが上げられている。
①任意入院及び通院患者を除く精神障害者に治療を受けさせること(第二十二条第一項)
②精神障害者の財産上の利益を保護すること(第二十二条第一項)
③精神障害者の診断が正しく行われるように医師に協力すること(第二十二条第二項)
④任意入院及び通院患者を除く精神障害者に治療を受けさせるに当たって医師の指示に従うこと(第二十二条第三項)
⑤回復した措置入院者等を引き取ること(第四十一条)
⑥通院治療の公費負担の申請ができること(第三十二条第三項)
⑦医療保護入院の同意をすることができること(第三十三条第一項)
⑧退院請求等の請求をすることができること(第三十八条の四)
これらから見て取れるように、精神障害を持ったその人ではなく、保護者(殆どが家族)に責任が強いられ、それを補ったり、サービスの供給という手段で肩代わりする福祉が存在している。福祉も障害を持ったその人の「できること」より「できないこと」に注目をしている。これでは「できないこと」、つまり障害者である自分という「役割」を負う以外に「役割」を見つけにくい。あるいはその障害を持っているその人にとって「好ましい」と感じられる「役割」を見つけるのは難しい。
 ストリートピープルが大量に存在することになったアメリカ。そしてクラブハウスというものができ、「役割」を見いだすことができた事例と、ストリートピープルを出さないように家族の「役割」を明確にし、それを補填するように配置された福祉。ストリートピープルという事態は無いに越したことはないし、クラブハウスができたからといって全ての人がそこを活用しているとも思えない。一方で日本式の福祉。障害を持ったその人達が作ったというよりも家族達が作ってきた面が大きい。だから、保護的になるし「親である自分がいなくなったときに、その人達はどうなるのか」から始まる心配。そして現在、突然国から「福祉サービスを受けるのも契約へ」と方針転換が告げられる。契約は福祉サービスを利用する本人と供給側とが行うので、「自分はこういったサービスが欲しい」と言わなければならない。言い切れなくとも「自分にできること」や「自分が不自由だと思うこと」を伝えなくてはならない。サービスを受けるあるいは買うのは、家族ではなく自分自身である。この事実を、障害を持つ人は受け入れることができるのか。福祉が生活の大部分を占める現在から不都合が起こっている部分だけとなる将来。ねじれが無くなった分だけ、「金銭」というものがそこに介在するようになる。

3 結語として 様々に選ぶこと
 作業所の「作業」とは何か、どういう意味を持つのかを検証してきた。そしてそれを構成する要素は多くあることが解った。切り口によって表出してくるその出方も違うことが解った。単純に「作業」=仕事という単純なものではない。作業所の「作業」にはその利用する人たち、あるいは作業所を作ってきた人たちにそれぞれの立場によって様々な意味がある。ただ、この論文では「作業」を行う人達が様々な意味を「作業」に見出した事を示した。「作業の意味」とは、「作業」を行う人その人達の「生の戦略」の一つではないか。そう考えると「作業」=何か決まったもの。という図式は当てはまらないし、無理矢理当てはめない方が良い。「作業」を選び行う時、それを選び行う人にはその人の生活の中での「作業」の位置づけがある。ある時は失敗し、ある時は強かに選び意味づけを行っている。自分で決める「自己決定」「自己選択」は選択肢の少ない中では意味がない。このことについては前述した。福祉の文脈の中だけで「自己決定」が行われていることも述べた。しかし、確かに「選んでいる」ことには間違いがない。「作業」にその人その人がそれぞれの「意味」を持たせる。功罪、あるいは意識しているか否かは別として、それぞれが同じ「作業」を通して違う「意味」を見いだしている。「作業」は工賃という「金銭」を生む。だから就労だ。福祉的就労だ。福祉的就労だから一般就労への準備段階だ。「障害者自立支援法」のなかで、国はそのように作業所を定義づけようとしている。ただ、このようにある一つの解釈で「作業」を定義づけてしまうと、「作業」の可能性はなくなる。働きたいあるいは働ける人間だけが集まることとなる。「一つの意味」がその人を決めつけてしまう。「できる」人と「できない」人が明確に線引きされる。「できない」人は、支援というサービスの受け手でしか無くなる。障害者という「役割」のみをその人自身が背負いこんでしまうおそれがある。
 作業所がやろうとしていること。あるいはやってきたこと。「作業」の意味分析をする中で、「作業」を行う人たちは明らかに自分自身で「作業」に意味を持たせ「作業」に取り組んでいる。支援者は、福祉の手法として「作業」を意味づけてしまった。ここに一つのねじれが生じている。支援者が「作業」を選び行う人と同じフォーマットで「作業」を捉えていない。そして今、「障害者自立支援法」という法律ができ、「作業所は働くところである」と定義づけられようとしている。国から「作業」を一つの見方のみを持った「意味」で定義づけられようとしている。作業=何か決まったもの、という図式を強いてしまうと、より少ない人たちしか「作業」ができなくなると危惧される。だが「障害者自立支援法」はより多くの障害を持つ人たちに「作業」が出来るように支援せよ、という。この法律の下に「支援」を強化すればするほど、その人独自の「作業の意味づけ」は希薄となり、積極的な「選択」や「生の戦略」はなくなってしまう。これまで曖昧なまま作業所やそこで行われてきた「作業」は推移してきている。しかしそれは「作業」を多様に意味づけすることまた出来ることで、一つの「作業」を多様に「選んで」いる。この「作業の意味分析」を考察した中で、それぞれが積極的に「選ぶ」ことが出来る曖昧な「作業」は、その人に狭義ではあるが社会的な「役割」を創出し、障害を持つものではなく健康な部分に注目できる効果があると解った。そこには「金銭」という強化因子が存在し、「福祉」の関わりの曖昧さが見える。ただ、「障害を持つ」ということが「出来ない」や「選べない」こととは必ずしも関係があるとは言えない。障害をもつその人達は「出来る」ことをやり、「選んで」生きている。これからは、その「出来ない」「選べない」とされてきた人たちが、何故そうなったのか、あるいは「出来る」所(作業所内など)では「出来る人」が、何故、それ以外では出来ないのかを考える必要がある。自立を考え、それを掲げるとき「自己責任」という問題が表出する。狭義の意味での自立を謳えばそれだけの「自己責任」を背負わされる。これは障害を持った人たちに限った事ではない。社会といわれる世界で生きている我々のどれくらいの人が、自立とその背後にある「自己責任」を意識して生活しているのだろうか。一つ一つの事象について多くの人が同じ「意味」を持ち、関わっているのだろうか。それらを考えると、障害を持つ人たちの自立を狭義で考えすぎだということがわかる。曖昧な「自己決定」による曖昧な自立でかまわないのではないか。多様な事物への意味の分析と再構築という曖昧さが、「出来ない」「選べない」から「出来る」「選べる」への変容の一助になると考える。障害を持つ人たちへの支援も、画一的で誰がやっても一応の成果が期待できる狭義の支援も必要である。しかし、「出来る」ことや「選べる」ことに力点を置いた曖昧な支援も必要ではないか。その曖昧な支援(「作業」)こそが「生きる」力の一助になると考える。

【引用文献】
(1)共同作業所全国連絡会編 1987 『ひろがれ共同作業所』 ぶどう社 p28―29
(2)山本真理『精神病者にとっての「合理的配慮」として』(全国「精神病」者集団)
(3)監修社団法人精神保健福祉士協会・日本精神保健福祉学会 2004/7 『精神保健福祉辞典』中央法規出版 p221
(4)社会福祉法人寧楽ゆいの会 2005/3 クラブハウス ピアステーション・ゆう編
『We Are Not Alone クラブハウスモデルって何?』 p9―10 
(5) 精神保健福祉研究会監修 2000/11 『改訂 精神保健福祉法詳解』中央法規出版 p156―158
【参考文献】
(1)浦河べてるの家著 2002/6 『べてるの家の「非」援助論』 医学書院
(2)石川准、長瀬修編著 1999/3 『障害学への招待』 明石書店
(3)『現代思想 2003/11 争点としての生命』 青土社
(4)E・ゴッフマン著 大黒毅訳 1984 『アサイラム』 誠信書房
(5)立岩真也著 2000/10  『弱くある自由へ』 青土社
(6)立岩真也著 2004/1 『自由の平等』 岩波書店


謝辞
 本論文執筆にあたり当初より指導いただきました中村正先生にお礼申し上げます。中村先生にはたくさんのアイデアを頂きました。クラスターで貴重なご意見ご指導いただきました団士郎先生、村本邦子先生にお礼申し上げます。お忙しい中、副査をお引き受け下さった立岩真也先生にお礼申し上げます。二年間共に刺激しあい学んだ家族クラスターの皆さん、様々な視点での意見ありがとうございました。本稿の構想段階で見学、意見交換を引き受けていただいたクラブハウス「ピアステーション・ゆう」の皆さんありがとうございました。
皆さんがいなければここまでたどり着けなかったと思います。ありがとうございました。

UP:20080415 REV:
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